お花でつくった花御堂。誕生仏に甘茶をかけて、こどもの花まつり。
お釈迦さまが生まれて七歩あるいて「天上天下唯我独尊」とおっしゃった。
まず人間の生き様を六つに分けて、地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天の六つの道。
六道輪廻というのは、ぐるぐる回ってその六道からでることができない。しかし七歩というのは、六道輪廻はなくならないけれども、それよりも大切なことに目が覚めた。六を一歩超えた七歩です。
「地獄」というのは競争社会。
現代そのものではないかと思います。
「餓鬼」というのは、
食べても食べても、儲けても儲けても、満足することができない。
「畜生」というのは、
エサをもらったら尻っぽを振っていくような、従属するような姿。
「修羅」というのは、
自分が正しいという思いが強いため、人に会うと、たちまち修羅場となってケンカになる。
「人間」というのは、
よかった悪かったで一日が終わる。よかった悪かったで一生が終わってしまう。
「天」というのは、
何でも自分の思いどおりになる世界。魔王になるということで、思いどおりにならないとすぐに怒ってしまうということでしょう。
こうして人間は、誰もが六道をぐるぐる回って、そこから出られないものであるが、それよりも大事なものが見つかったというのが七歩です。
それが「天上天下唯我独尊」なのです。
「天上」というのは時間の長さ。
オギャーと生まれた赤ちゃんのときも、異性にあこがれた青春時代も、結婚して子育てしたときも、また、老いて人の世話になるときも、その人であることに変わりがないのです。
「天下」というのは場所の広さ。
日本で生まれても、韓国で生まれても、イラクで生まれても、どこで生まれようと、ひとりも漏らさず誰も皆。
「唯我」というのは無条件でわたしということ。
わたしたちの日常は、すべて善し悪しの条件付きで、がんじがらめになっている。若いときはよいが、歳をとったらあかん。社会に役立つときはよいが、役に立たないとダメ。元気なときはよいが、病気になると、つまらないと思ってしまう。
「独尊」というは、無比。
比べることの出来ない、唯一の個性的な存在であるということです。お経には「無有代者」とあって、他人に代わってもらうことも、代わってあげることもできない、自分が自分の人生の責任者であることを教えています。
たとえ世間が人を見捨てることがあっても、自分で自分を見捨てることはない。そういういのちを、今生きているんです。
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『大きい字の法話集』(東本願寺出版部)より抜粋